ドイツの小さな町から世界的ブランドへと成長したアディダスとプーマの兄弟の物語は、スポーツ史だけでなく企業史の中でも特別な存在だ。
創業者である兄ルドルフと弟アドルフは、共に靴作りで成功を収めたが、価値観の違いや時代背景が積み重なり、やがて激しい喧嘩と決裂を迎える。
仲悪いと評されるその関係は、映画や書籍でもたびたび描かれ、ブランド間の競争やコラボの在り方にも影響を与えてきた。
近年には企業同士の象徴的な和解も見られる一方で、現在でもどっちが人気かという議論は尽きない。
ナイキやアシックス、さらには鬼塚ブランドとの比較や、スニーカーの組み合わせ提案など、多角的な視点から兄弟の足跡を辿ることは、単なる歴史の確認にとどまらず、世界的ブランドの成長戦略を知る手がかりにもなる。
■本記事のポイント
- アディダスとプーマの兄弟の創業から分裂までの経緯
- 兄弟の仲悪いと言われる理由と背景
- 両ブランドの現在の人気や市場での立ち位置
- 和解やコラボ、他ブランドとの関係性
アディダスとプーマの兄弟の創業者史
第二次世界大戦前後、ドイツの小さな町から世界的ブランドが二つも生まれました。
その中心にいたのは、アドルフ(アディ)とルドルフ(ルディ)という実の兄弟です。
二人は同じ夢を追い、靴作りで成功を収めますが、時代の荒波と価値観の違いが少しずつ溝を広げていきます。
そしてある日、その溝は埋められないほど深くなり、工場も社員も町も二つに割れる決断が下されました。
ここからは、兄弟の間に何が起きたのか、その経緯や象徴的な出来事をたどりながら、アディダスとプーマという二大ブランドの原点に迫ります。
喧嘩の発端と背景を時系列でみる
まず押さえるべき点は、二人の兄弟(弟アドルフ=アディ、兄ルドルフ=ルディ)が1920年代に共同で「ダスラー兄弟靴工場(Gebruder Dassler)」を立ち上げ、1936年ベルリン五輪で実績を上げるなど順調に拡大していたことです。
ところが第二次世界大戦期にかけて経営観や役割観の違い、軍務や工場の軍需転換、戦後の取り調べといった出来事が積み重なり、1948年に決裂・分社という結末に至ります。
実際、1948年にルドルフがプーマを、1949年にアドルフがアディダスを設立し、共同工場は人員・資産ともに分割されました。
ここで、時系列で背景を整理します。
まず1924年に工場を正式登録し、1930年代は競技別シューズの開発と選手支援で名を上げます。
例えばベルリン五輪(1936年)でジェシー・オーエンスがダスラーのスパイクで活躍したという“伝説”は企業史でも語られ、その後も国際的な認知が高まりました。
一方で、戦時下の負荷は関係悪化を加速させます。
1943年には工場が軍需産業へと転用され、兄弟の手紙の応酬や権限をめぐる主張の衝突が激化しました。
さらに、ルドルフが徴兵・拘束される間に「経営判断を誰が担うのか」をめぐる不信が深まり、相互の疑念が決定的な亀裂となります。
アディ側の年譜でも、戦時中の意思決定と家族内の対立が分離の主要因として整理されています。
こう考えると、単発の事件ではなく複合要因が積み重なったと理解できます。
そして戦後、工場・従業員・取引先の「どちらに付くか」という実務的判断が迫られました。
結果として、駅側の工場と約3分の2の従業員はアディダスへ、ヴュルツブルク通り側の工場と残りはプーマへ移行します。
社名は当初「RUDA」「ADDAS」など仮称を経て、最終的にPUMAとadidasに定着しました。
ここから両社の競争が世界市場に拡大し、1950年代の西ドイツ代表支援(アディダス)や1970年W杯の“ペレ・パクト”逸脱(プーマ)など、象徴的出来事が続いていきます。
最後に、兄弟間の私的関係は決裂後に修復されませんでした。
両者は1970年代に相次いで亡くなり、故郷ヘルツォーゲンアウラハの墓地でも最も離れた位置に埋葬されています。
もっと言えば、町全体が長く二分され、「うつむきの町(人の靴を見て所属を確かめる)」と呼ばれたほどです。
仲悪いと言われる理由の検証
言ってしまえば、「仲悪い」と語られる根拠は三層あります。
第一に、戦時・戦後処理をまたぐ経営方針の対立と相互不信という“事実経緯”。
第二に、決裂後に起きたマーケティング合戦とスポーツ現場での争奪戦という“行動”。
第三に、故郷の生活圏まで分断した“社会的影響”です。
いずれも単独ではなく、重なり合って印象を強化してきました。
まず“事実経緯”。
戦時中の権限や連絡体制、家族(妻同士)や兄弟間の役割をめぐる齟齬は、当時の公的文書や関係書簡の存在からも確認されます。
年譜資料では、1940年代前半に「開発重視のアディ」と「販売重視のルディ」というスタイルの違いが先鋭化し、戦後の身分審査や工場再開をめぐる一連の混乱が関係を決定的に悪化させたと整理されています。
ここで、誰が誰を“告発したか”の断定は資料間で解釈が分かれるため、単純化せず「疑念と対立の累積」が本質と捉えるのが妥当です。
次に“行動”。
1950年代以降、両社は別々のアスリートや代表チームと契約し、W杯やボクシングなどで競いました。
特に1970年W杯前に「ペレには手を出さない」との暗黙合意(いわゆるペレ・パクト)が語られる一方、プーマが最終的に契約し、試合開始前に靴ひもを結び直してカメラを引き寄せた逸話は、競争の苛烈さを象徴します。
これはビジネス上の巧妙な一手であると同時に、兄弟企業間の“裏切り”として物語化され、「不仲」のイメージをさらに強めました。
そして“社会的影響”。
ヘルツォーゲンアウラハでは、工場、商店、理髪店、さらにはサッカークラブまで“どちら派か”で分かれ、相手側と交わらない空気が長く続きました。
人々がまず相手の足元を見て所属を確かめる習慣から「うつむきの町」という異名が生まれ、両社の社員同士が口も利かない時代も記録されています。
前述の通り、これは企業間対立が地域社会の関係性にまで及んだ稀有な例であり、「仲が悪い」という評価を生活実感として補強しました。
なお、時代は下って2009年9月21日、ピース・ワン・デーに合わせて両社の社員が初めて握手し、親善試合を行う“和解のジェスチャー”が実現します。
これは企業トップ連名でのコメントも残る公式イベントでした。
ただし、兄弟本人はすでにこの世になく、私的な和解が成ったわけではありません。
企業間の関係が象徴的に軟化した、という理解が適切です。
こうして見ると、「仲悪い」と言われる理由は単なる噂や一場面の誇張ではなく、
①戦時・戦後の深い不信、
②競技現場での派手な競争、
③地域社会に及ぶ長期的分断、
という三つ巴の現実に裏打ちされています。
いずれにしても、現在の両社はグローバル企業として共存しつつ、ときに啓発的な協働を示す段階に入っている点も押さえておきたいところです。
和解はあった?象徴的出来事
前述の通り、アディダスとプーマの創業者であるダスラー兄弟本人同士は決して和解することはありませんでしたが、企業同士としての和解を象徴する象徴的な出来事が2009年9月21日に起きました。
その日、世界平和の日(Peace One Day)を契機に、両社の社員が初めて一緒にサッカーをし、その後「The Day after Peace」という映画を観賞するというイベントが行われました。
この催しでは、社員同士の握手や共にスポーツを楽しむ様子が、和解の象徴として大きく報じられました。
「アディダスとPUMAの象徴的な握手は、非暴力と停戦の必要性への認識を高めた」ものでした。
その当時には両社のロゴ(アディダスの3本線とプーマのジャンプキャット)が入った特別ユニフォームも制作され、限定80着がオークションにかけられ、収益はPEACE ONE DAYに寄付されたという点も注目すべき事実です。
こうした企業間の付き合いは、兄弟本人の和解とは異なりますが、歴史的な対立を超える象徴的な一歩として評価されています。
映画で描かれた兄弟の対立
近年、ダスラー兄弟の対立ドラマがスクリーンに登場し、その埋もれた物語が語られる機会が増えています。
2025年には、この歴史的企業抗争を題材としたテレビドラマ制作が報じられました。
このドラマは、アディ(Adolf)とルディ(Rudolf)という兄弟が共同経営から対立に至る過程をドラマチックに描き、二つのグローバルブランド誕生の背景にある激しい感情と歴史が描かれる予定です。
また、過去には『Duell der Bruder Die Geschichte von Adidas und Puma』(兄弟の対決?アディダスとプーマの物語)というドイツ製のテレビ映画も制作されており、当時の政治的背景や個々の心理描写が高く評価され、複数の映画賞にもノミネート・受賞しています。
その中では、戦時中の関係悪化や相互不信、そして後の企業分裂の背景がリアルかつ芸術的に描かれています。
鬼塚とアシックスの関係整理
アシックスの起源は1949年、鬼塚喜八郎が神戸で設立した「鬼塚商会」に遡ります。
その後「鬼塚株式会社」として会社化され、1977年にGTO社やJELENK社と合併して「アシックス(ASICS)」が誕生しました。
現在、アシックスの中にはレトロブランドとして「オンitsuka Tiger(オニツカタイガー)」も併存しており、両ブランドは異なる方向性で展開されています。
例えば、Onitsuka Tigerはファッション性を重視したライフスタイルブランドとして再解釈されており、Mexico 66など往年の名作モデルをリバイバルさせたり、今風にアレンジしたりすることで人気を集めています。
一方で、アシックス本体は性能重視のスポーツギアブランドとして、ランニングシューズなどの機能性に注力しています。
ここで整理すると、鬼塚(創業者)→オンitsuka Tiger(レトロ & ファッション重視)→アシックス(パフォーマンス重視)の流れが明確にあり、「鬼塚とアシックスの関係」は、創業者からブランドの多様化へと進化した歴史である点が分かりやすいと言えます。
アディダスとプーマの兄弟の現在地
かつて激しく対立し、同じ町で別々の道を歩み始めたアディダスとプーマ。
しかし数十年の時を経て、両社はそれぞれの強みを磨き上げ、世界中で存在感を放ち続けています。
スポーツからファッションまで幅広く影響を与える彼らの動きは、単なるブランド競争を超えた文化現象とも言えるでしょう。
ここからは、人気の現状や市場での立ち位置、他ブランドとの比較、そして最新のコラボやスタイリングのヒントまで、現在のアディダスとプーマを多角的に追っていきます。
どっちが人気か結論とスタンス
アディダスとプーマ、どちらが人気か迷う方も多いと思います。
現在の状況から言えば、アディダスは売上面でも人気度でもプーマを上回っています。
2025年にはアディダスが売上・利益ともに好調な業績をあげており、世界でもナンバー2のスポーツブランドとしての存在感があります(ナンバー1はナイキ)。
一方、プーマは環境・サステナビリティへの取り組みが評価されるなど、一定の支持を得つつも、全体としてはアディダスには一歩及ばない印象です。
そのため、どちらが人気かという問いに対しては、現在のマーケットにおいてはアディダスがより支持を得ていると言えます。
ただしプーマもブランドとしての評価や独自性は確立されているので、スタンスとしては“アディダス優位ながらプーマも侮れない”という形で両社を公平に見るのが良いでしょう。
ナイキとの比較で見える差
ナイキと比較すると、アディダスやプーマにはそれぞれ異なる強みが見えてきます。
まずナイキは技術力や宣伝力に非常に長けており、世界で最も人気のあるスポーツブランドです。
ただ、静かな強みという意味では、アディダスは快適さや耐久性、そしてサステナビリティへの取り組みで評価が高まっています。
一方でプーマはコラボ商品やデザイン性で個性的な支持を得ており、「価格に見合う品質や見た目の良さ」が魅力という声もあります。
このようにナイキは最先端性能を追求する一方、アディダスは快適さや持続可能性、プーマはスタイルとコストパフォーマンスに重きを置いたブランドと言えます。
どの特性が自分に響くかで選び分けるのが最も合理的なアプローチでしょう。
コラボの有無と事例の整理
アディダスとプーマは、長年のライバル関係から直接的なコラボレーションはほとんど行ってきませんでした。
創業者であるダスラー兄弟の確執が長く企業文化にも影響しており、互いにパートナーシップ先やアプローチを差別化する戦略を取ってきたためです。
とはいえ、近年では両ブランドともにファッションやスポーツの垣根を越えたコラボに積極的で、それぞれのブランドカラーを生かした提携事例が数多く見られます。
プーマの代表的なコラボとしては、歌手リアーナとの「Fenty X Puma」シリーズが有名です。
2016年に始動したこのラインは、ストリートファッションにラグジュアリー感を融合させ、従来のスポーツブランドにはなかった独創的なシルエットや素材使いで世界的な注目を集めました。
限定生産のアイテムは即完売することも多く、プーマのブランドイメージを刷新する大きな役割を果たしました。
一方、アディダスはファッションブランドやアーティストとの連携を積極的に展開しています。
近年ではラテン音楽界のスター、Bad Bunnyとのコラボレーションによる「Mei Ballet」など、バレエシューズ風のスニーカーが話題になりました。
この流れは世界的なバレエコア・トレンドとも合致し、ストリートから高級ファッションまで幅広い層にアプローチしています。
また、両社ともバレエシューズをベースにしたミニマルなスニーカーを発売しており、プーマの「Speedcat Ballet」とアディダスのバレエ風モデルは、同時期に市場で競合しています。
こうした“間接的なコラボ的共鳴”は、ライバルでありながら同じ潮流に乗る両ブランドの面白さでもあります。
スポーツの分野では、プーマがマンチェスター・シティと締結した10年間・総額10億ポンドの大型ユニフォーム契約が話題となりました。
この契約は単なるキット供給に留まらず、シティ・フットボール・グループ全体との戦略的パートナーシップとして構築されています。
一方のアディダスは、レアル・マドリードやバイエルン・ミュンヘンなど伝統的強豪との契約を更新し、サッカー市場での存在感を維持しています。
直接的なコラボはないものの、世界中で異なる領域における提携を通じ、それぞれが独自の価値を築いているのです。
スニーカーの組み合わせ案内
スニーカーは単なる運動靴ではなく、今やファッションの核となるアイテムです。
アディダスやプーマのスニーカーは、スポーツブランドの機能性を保ちつつ、街着やビジネスカジュアルにも取り入れやすいデザインが増えています。
特に2025年のトレンドとして、ランニングシューズやインドアスポーツ用モデルを日常コーデに組み合わせる「スポーツシルエット」の人気が高まっています。
例えばアディダスのTaekwondoシリーズやTokyoモデルは、レトロ感のある薄底デザインが特徴で、ワイドパンツやセットアップスーツと組み合わせると、抜け感と軽快さを同時に演出できます。
一方、プーマのSpeedcatは元々レーシングシューズに由来するシャープなフォルムを持ち、細身のデニムやトラックパンツと相性抜群です。
コーディネートのポイントは、足元のデザイン性を活かすために全体をシンプルにまとめることです。
例えば、白や黒の無地トップスと合わせればスニーカーのカラーや素材感が引き立ちます。
逆に、スニーカーがモノトーンの場合は、トップスや小物で差し色を入れることで、視線を全体に散らしながら足元を洗練された印象に保てます。
また、Nordstromなどの海外ファッションサイトでは、アディダスやプーマの新作を使った着こなし例が数多く紹介されており、季節やシーンに応じたスニーカーの取り入れ方が提案されています。
スポーティさとファッション性の両立は、日本の街中でも確実に浸透しており、日常使いから旅行、軽い運動まで幅広く活躍するスタイルが選ばれています。
ヘルツォーゲンアウラハの今
ヘルツォーゲンアウラハは、人口約2万人のバイエルン州の小都市で、アディダスとプーマという二大スポーツブランドの本社が並び立つ世界的にユニークな町です。
1948年に兄弟の確執から企業が分裂して以来、長らく住民も「アディダス派」と「プーマ派」に分かれ、サッカークラブや商店、果ては理髪店までブランドによって選ばれる状況が続きました。
そのため「うつむきの町」と呼ばれ、人々は初対面の相手の靴を見てどちらの陣営かを判断したと言われています。
しかし時代が進むにつれ、地域の分断は薄れ、町は両社の存在を誇りとする雰囲気へと変化しました。
現在では両社の本社が観光資源となり、ブランドのアウトレットショップや企業ミュージアムが国内外の旅行者を惹きつけています。
町の経済は両ブランドの雇用と関連産業によって支えられ、安定的な成長を維持しています。
もっとも、グローバル競争の中で本社組織の合理化も進んでおり、2025年にはアディダスが本社人員の最大500人削減を発表しました。
これは業務効率化と地域拠点への権限移譲を目的としたもので、町にとっては雇用面での影響もある一方、企業の国際競争力維持には不可欠な施策とされています。
今のヘルツォーゲンアウラハは、過去の確執を背景にしつつも、スポーツと地域社会が共存する象徴的な場所です。
町を歩けば、最新モデルのスニーカーを履いた観光客と、ブランドのロゴ入り作業着姿の社員が同じカフェで過ごす光景も珍しくありません。
歴史と現代が交差するこの町は、アディダスとプーマの物語を今も静かに語り続けています。
【まとめ】アディダスとプーマの兄弟について
最後に本記事で重要なポイントをまとめます。